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クラシカロイド#13とシューベルト「人魚幻想」

昨夜TLを遡っていると、フォロワーさんたちが、Eテレで人気のアニメ「クラシカロイド」をネタに盛り上がっていました。昨日はシューベルトの《ます》が取り上げられていたのですね(以下、第13話のネタバレを含みます)。少々長い記事になりますが、興味のある方、お付き合いください。

 

注記:記事中で、フォロワーさまや公式アカウントさまのツイートを引用させて頂いております。もしご迷惑でしたらご連絡くださいませ、すぐに外したく思います。

 

シューベルト 歌曲《ます》D550をディースカウの演奏にて。


Schubert: "Die Forelle" (Fischer-Dieskau, Moore)

 

クラシカロイド第13話「ます」は、シューベルトの入浴シーンで幕を開けます。タイトルの「ます」とは、ご存知の通りピアノ五重奏曲《ます Die Forelle》D667に由来するものです。アニメで入浴中のシューベルトが口ずさんでいる有名な旋律は、このピアノ五重奏曲の第4楽章の変奏主題でもありますが、もともとこれは歌曲《ます Die Forelle》D550の旋律でした。1817年に歌曲《ます》を作曲したシューベルトは、その2年後にピアノ五重奏曲の中で、この主題を用いたのです。この記事では適宜、歌曲《ます》の方についても触れていきますね。

 

アニメ冒頭で、シューベルトが心地よく《ます》の旋律をハミングしていると、「ムジーク」が発動してしまいます。ムジークの力で、シューベルトはなんと魚の鱒になってしまいます。ここから物語が始まり、命の危機に瀕したシューベルトもとい鱒は、音羽館からの脱走を試みます。そして無事に浜名湖にたどり着いたけれども、そこで釣りに勤しむベートーヴェンに捕獲されて・・・というのが今回のあらすじでした。

シューベルトが魚になってしまう」このストーリーに、私は仰天してしました。というのも、ちょうど最近シューベルト《ます》の解釈に関する研究をフォローしていて、その中で「シューベルトが魚になりたいのではないか」というものがあったからです。

 

それが、ローレンス・クレイマー Lawrence Kramer というアメリカの音楽学者によるFranz Schubert: Sexuality, Subjectivity, Song という著作の中の一章です。

Franz Schubert: Sexuality, Subjectivity, Song (Cambridge Studies in Music Theory and Analysis)

Franz Schubert: Sexuality, Subjectivity, Song (Cambridge Studies in Music Theory and Analysis)

 

ここに収められた 第3章「人魚幻想:シューベルトのますと女性化の願望 Mermaid Fancies: Schubert's Trout and the "Wish to be Woman"」pp.75-92 では、一連の《ます》をジェンダーの視座から批評*1する試みがなされます。 

 

章のタイトル「人魚幻想」からも分かるように、この論の主眼は「シューベルトの女性になりたいという願望」です。ごくごく単純化して要約しますと、クレーマーが示すのは、シューベルト=魚、釣り人=男性という構図です。クレイマーは、当時の文化的背景や、美学的考察(同じような性的願望を持っていたとされるシュレーバー*2の例など)を比較・精査しつつ、この論を根拠づけます。

 

クレイマーの論の中でも興味深いのは、歌曲《ます》のテクストに関する考察でしょう。本記事でも部分的に紹介したく思います*3。このテクストは、シューバルトというドイツの有名な詩人によって書かれました(以下、抄訳)。

 

"Die Forelle"             「鱒」

 

In einem Bächlein helle          明るい小川に

Da schoß in froher Eil             愉快に急ぐ

Die launische Forelle              気まぐれな鱒たちが

Vorüber wie ein Pfeil.           矢のように泳いでいた。

Ich stand an dem Gestade     私は水際に立ち

Und sah in süßer Ruh          幸せな気持ちで 

Des muntern Fischleins Bade      活発な魚たちが

Im klaren Bächlein zu.       澄んだ小川に泳ぐのを眺めた。

 

Ein Fischer mit der Rute       ある釣り人が竿を手に

Wohl an dem Ufer stand,      岸辺に立ち

Und sah's mit kaltem Blute,    冷たく

Wie sich das Fischlein wand.     魚たちが動き回るのを見ていた。

So lang dem Wasser Helle,   水が澄んでいる限り

So dacht ich, nicht gebricht,    私は大丈夫だろうと思った

So fängt er die Forelle      釣り人が鱒を捕らえて

Mit seiner Angel nicht.        針にかけることはないだろうと・・・

 

Doch endlich ward dem Diebe   しかしついに!釣り人は

Die Zeit zu lang. Er macht     しびれを切らして卑怯にも

Das Bächlein tückisch trübe,   小川をかきまわし濁らせた

Und eh ich es gedacht,       私が考える暇もなく

So zuckte seine Rute,      竿はぴくり震え

Das Fischlein zappelt dran,     そこに鱒が暴れていた

Und ich mit regem Blute     私は腹を立て

Sah die Betrog'ne an.      罠に落ちた魚を見つめた。

 

[以下、シューベルトの歌曲では削除]

Die ihr am goldenen Quelle   黄金の泉に

Der sicheren Jugend weilt,    若さの続くあなたたちよ

Denkt doch an die Forelle,    鱒のことを考えなさい

Seht ihr Gefahr, so eilt!     危険に遭って慌てる鱒を!

Meist fehlt ihr nur aus Mangel  あなたたちには用心さが欠けている

der Klugheit, Mädchen, seht    娘たちよ、見なさい

Verführer mit der Angel!      釣り針を持って誘惑する男たちを!

Sonst blutet ihr zu spät!           さもないと後悔するのです!

ーーーー

原詞の最後の連は、シューベルトの歌曲の中では削除されています。

 

その最後の連は「男性はこうやって女の子をたぶらかすから、若い女性は気をつけるように」という内容です。このことからも分かるように、この詩においては鱒は女性、釣り人は男性のメタファーになっています。ドイツ語で「鱒 die Forelle」は女性名詞*4。一方で「釣り人 der Fischer」は男性です。

 

第三連の最後にある「罠に落ちたもの die Betrog'ne」という言葉からも分かるように、この物語は、無垢な生き物である魚=若い女が、残酷にも「seine Rute 竿」を持った男によって欺かれる様子を描き出しているのです。解釈は色々あると思いますが、「釣り竿 die Rute」は文字通り男根の表現なのですね。

 

クレイマーは次のように述べます。

Certeainly once the narrative of "Die Forelle" is recogenaized as a sexual parable, the fantasies that subtend it are hard to miss*5.

確かに一度なりとも《ます》の物語を性的な寓話として認識したならば、そのくびきからこの幻想が逃れるのは困難である。

クレイマーは、このテクストに音楽を付したシューベルトが、原詩の最後の連を削除したことから、シューベルトがこの詩に対してどのようにアプローチしたのかということに注目しています。

 

削られた最後の連は、もともと寓意的な側面を強める内容を持っていました。この説明的なナレーションを歌曲では削除することで、「魚」―「釣り人」―「語り手(男)」という、三角関係の構図は曖昧になります。すなわち、この作品では「慣習的には作者の性と同じであるべき語り手の性」が曖昧にされました。むしろ、歌曲《ます》における語り手は、鱒の自由と歓びの瞬間を分かち合うように、鱒――すなわち女性に寄り添う形で、登場しています。

この語り手の扱いが、果たしてシューベルトの女性的な願望を反映させるものであるのか、その願望が何を意味するのかについては、いくつかの可能性が提示されますが(魚が語り手の恋人であるのか?etc.)、その答えは分かりません。しかしシューベルトの人魚に寄り添う願望は、そのひとつの可能性と言えるでしょう。クレイマーは音楽分析(各連の終止形、和声構造etc.)を通して、その願望を炙り出してゆきます*6

 

この《ます》の歌詞を踏まえた上で、アニメでの「魚」と「釣り人」の関係性に目を向けたいと思います。アニメの「釣り人」は、シューベルトが敬愛してやまないベートーヴェンでしたね。歌曲《ます》のテクストを、性的寓意のあるものとして理解するなら、劇中のセリフは、たしかに「控え目に言ってヤバ」くなります。。。

 

ただしベートーヴェンは、歌曲の歌詞にあるように「小川を掻き回して濁らせる Er macht das Bächlein tückisch trübe」という卑怯な手を使うことなく、「餃子」を用いることで、優しくシューベルトを釣り上げています。なお、そんな優しいベートーヴェン先輩に対し、アニメ中シューベルトは「ベートーヴェン先輩になら食べられてもいい」という発言もしています。

 

第13話の「シューベルトが魚へと姿を変えベートーヴェンの釣り竿にひっかかる」というプロットはどこから着想を得たものなのでしょうか?少なくとも、歌曲の方の《ます》の歌詞を意識していると考えるのは自然のような気がします。可能性は限りなくゼロに近いとは思いますが、もしかすると制作者の方で、このクレイマーの論考をご覧になった方があるかもしれませんね。セクシュアリティの問題を保留するにせよ、このプロットはベートーヴェン×シューベルトというCPの、公式の表明として受け取っていいのではないでしょうか。

 

さらに、公式アカウント様はこんな画像をツイートされていました。

 

 

富山の有名な駅弁「ますの寿司」です。《ます》にちなんでいるところに、制作陣のこだわりが窺えます。注目したいのは、ますの寿司を食べ終わった蓋にお描きになった、ファン心をくすぐる絵です。

 

 

・・・この画でシューベルトは半人半鱒、すなわち「人魚」として描かれています。まさにクレーマーが描き出したシューベルトの「人魚願望」を汲み取ったかのようで、思わず微笑んでしまいました。私自身、ひとつの(ちょっと特異な)学術的な解釈が、日本のアニメを通して活き活きと人口に膾炙していることに対して、音楽研究へのモチベーションを刺激されたように思います。ありがとう公式(訳:いいぞもっとやれ)。

 

【追記】

慣例に従い著者の表記を「クレーマー」から「クレイマー」へと改めました。ツイッター等でご指摘下さった方ありがとうございます!

また当該著作フランツ・シューベルト――セクシュアリティ・主体性・歌』について、この第1章および第2章前半を、シューベルト研究の堀朋平先生が『思想』上で翻訳・紹介なさっていることも付記させてください(1031号、2010年、pp.95-144)。

*1:本ブログで「批評」という言葉はcritiqueの訳語として用いています。

*2:Daniel Paul Schreber, 1842-1911は、ドイツの法律家。

*3:私は歌詞の話にしか触れていませんが、よろしければ全体もお読み下さい。

*4:「鱒」を女性とする当時の文化的背景については論文の前半に詳しいです。

*5:p.81

*6:機会があれば別の記事にしたく思います。