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クラシカロイド#13とシューベルト「人魚幻想」

昨夜TLを遡っていると、フォロワーさんたちが、Eテレで人気のアニメ「クラシカロイド」をネタに盛り上がっていました。昨日はシューベルトの《ます》が取り上げられていたのですね(以下、第13話のネタバレを含みます)。少々長い記事になりますが、興味のある方、お付き合いください。

 

シューベルト 歌曲《ます》D550をディースカウの演奏にて。


Schubert: "Die Forelle" (Fischer-Dieskau, Moore)

 

クラシカロイド第13話「ます」は、シューベルトの入浴シーンで幕を開けます。タイトルの「ます」とは、ご存知の通りピアノ五重奏曲《ます Die Forelle》D667に由来するものです。アニメで入浴中のシューベルトが口ずさんでいる有名な旋律は、このピアノ五重奏曲の第4楽章の変奏主題でもありますが、もともとこれは歌曲《ます Die Forelle》D550の旋律でした。1817年に歌曲《ます》を作曲したシューベルトは、その2年後にピアノ五重奏曲の中で、この主題を用いたのです。この記事では適宜、歌曲《ます》の方についても触れていきますね。

 

アニメ冒頭で、シューベルトが心地よく《ます》の旋律をハミングしていると、「ムジーク」が発動してしまいます。ムジークの力で、シューベルトはなんと魚の鱒になってしまいます。ここから物語が始まり、命の危機に瀕したシューベルトもとい鱒は、音羽館からの脱走を試みます。そして無事に浜名湖にたどり着いたけれども、そこで釣りに勤しむベートーヴェンに捕獲されて・・・というのが今回のあらすじでした。

シューベルトが魚になってしまう」このストーリーに、私は仰天してしました。というのも、ちょうど最近シューベルト《ます》の解釈に関する研究をフォローしていて、その中で「シューベルトが魚になりたいのではないか」というものがあったからです。

 

それが、ローレンス・クレイマー Lawrence Kramer というアメリカの音楽学者によるFranz Schubert: Sexuality, Subjectivity, Song という著作の中の一章です。

Franz Schubert: Sexuality, Subjectivity, Song (Cambridge Studies in Music Theory and Analysis)
 

ここに収められた 第3章「人魚幻想:シューベルトのますと女性化の願望 Mermaid Fancies: Schubert's Trout and the "Wish to be Woman"」pp.75-92 では、一連の《ます》をジェンダーの視座から批評*1する試みがなされます。 

 

章のタイトル「人魚幻想」からも分かるように、この論の主眼は「シューベルトの女性になりたいという願望」です。ごくごく単純化して要約しますと、クレーマーが示すのは、シューベルト=魚、釣り人=男性という構図です。クレイマーは、当時の文化的背景や、美学的考察(同じような性的願望を持っていたとされるシュレーバー*2の例など)を比較・精査しつつ、この論を根拠づけます。

 

クレイマーの論の中でも興味深いのは、歌曲《ます》のテクストに関する考察でしょう。本記事でも部分的に紹介したく思います*3。このテクストは、シューバルトというドイツの有名な詩人によって書かれました(以下、抄訳)。

 

"Die Forelle"             「鱒」

 

In einem Bächlein helle          明るい小川に

Da schoß in froher Eil             愉快に急ぐ

Die launische Forelle              気まぐれな鱒たちが

Vorüber wie ein Pfeil.           矢のように泳いでいた。

Ich stand an dem Gestade     私は水際に立ち

Und sah in süßer Ruh          幸せな気持ちで 

Des muntern Fischleins Bade      活発な魚たちが

Im klaren Bächlein zu.       澄んだ小川に泳ぐのを眺めた。

 

Ein Fischer mit der Rute       ある釣り人が竿を手に

Wohl an dem Ufer stand,      岸辺に立ち

Und sah's mit kaltem Blute,    冷たく

Wie sich das Fischlein wand.     魚たちが動き回るのを見ていた。

So lang dem Wasser Helle,   水が澄んでいる限り

So dacht ich, nicht gebricht,    私は大丈夫だろうと思った

So fängt er die Forelle      釣り人が鱒を捕らえて

Mit seiner Angel nicht.        針にかけることはないだろうと・・・

 

Doch endlich ward dem Diebe   しかしついに!釣り人は

Die Zeit zu lang. Er macht     しびれを切らして卑怯にも

Das Bächlein tückisch trübe,   小川をかきまわし濁らせた

Und eh ich es gedacht,       私が考える暇もなく

So zuckte seine Rute,      竿はぴくり震え

Das Fischlein zappelt dran,     そこに鱒が暴れていた

Und ich mit regem Blute     私は腹を立て

Sah die Betrog'ne an.      罠に落ちた魚を見つめた。

 

[以下、シューベルトの歌曲では削除]

Die ihr am goldenen Quelle   黄金の泉に

Der sicheren Jugend weilt,    若さの続くあなたたちよ

Denkt doch an die Forelle,    鱒のことを考えなさい

Seht ihr Gefahr, so eilt!     危険に遭って慌てる鱒を!

Meist fehlt ihr nur aus Mangel  あなたたちには用心さが欠けている

der Klugheit, Mädchen, seht    娘たちよ、見なさい

Verführer mit der Angel!      釣り針を持って誘惑する男たちを!

Sonst blutet ihr zu spät!           さもないと後悔するのです!

ーーーー

原詞の最後の連は、シューベルトの歌曲の中では削除されています。

 

その最後の連は「男性はこうやって女の子をたぶらかすから、若い女性は気をつけるように」という内容です。このことからも分かるように、この詩においては鱒は女性、釣り人は男性のメタファーになっています。ドイツ語で「鱒 die Forelle」は女性名詞*4。一方で「釣り人 der Fischer」は男性です。

 

第三連の最後にある「罠に落ちたもの die Betrog'ne」という言葉からも分かるように、この物語は、無垢な生き物である魚=若い女が、残酷にも「seine Rute 竿」を持った男によって欺かれる様子を描き出しているのです。解釈は色々あると思いますが、「釣り竿 die Rute」は文字通り男根の表現なのですね。

 

クレイマーは次のように述べます。

Certeainly once the narrative of "Die Forelle" is recogenaized as a sexual parable, the fantasies that subtend it are hard to miss*5.

確かに一度なりとも《ます》の物語を性的な寓話として認識したならば、そのくびきからこの幻想が逃れるのは困難である。

クレイマーは、このテクストに音楽を付したシューベルトが、原詩の最後の連を削除したことから、シューベルトがこの詩に対してどのようにアプローチしたのかということに注目しています。

 

削られた最後の連は、もともと寓意的な側面を強める内容を持っていました。この説明的なナレーションを歌曲では削除することで、「魚」―「釣り人」―「語り手(男)」という、三角関係の構図は曖昧になります。すなわち、この作品では「慣習的には作者の性と同じであるべき語り手の性」が曖昧にされました。むしろ、歌曲《ます》における語り手は、鱒の自由と歓びの瞬間を分かち合うように、鱒――すなわち女性に寄り添う形で、登場しています。

この語り手の扱いが、果たしてシューベルトの女性的な願望を反映させるものであるのか、その願望が何を意味するのかについては、いくつかの可能性が提示されますが(魚が語り手の恋人であるのか?etc.)、その答えは分かりません。しかしシューベルトの人魚に寄り添う願望は、そのひとつの可能性と言えるでしょう。クレイマーは音楽分析(各連の終止形、和声構造etc.)を通して、その願望を炙り出してゆきます*6

 

この《ます》の歌詞を踏まえた上で、アニメでの「魚」と「釣り人」の関係性に目を向けたいと思います。アニメの「釣り人」は、シューベルトが敬愛してやまないベートーヴェンでしたね。歌曲《ます》のテクストを、性的寓意のあるものとして理解するなら、劇中のセリフは、たしかに「控え目に言ってヤバ」くなります。。。

 

ただしベートーヴェンは、歌曲の歌詞にあるように「小川を掻き回して濁らせる Er macht das Bächlein tückisch trübe」という卑怯な手を使うことなく、「餃子」を用いることで、優しくシューベルトを釣り上げています。なお、そんな優しいベートーヴェン先輩に対し、アニメ中シューベルトは「ベートーヴェン先輩になら食べられてもいい」という発言もしています。

 

第13話の「シューベルトが魚へと姿を変えベートーヴェンの釣り竿にひっかかる」というプロットはどこから着想を得たものなのでしょうか?少なくとも、歌曲の方の《ます》の歌詞を意識していると考えるのは自然のような気がします。可能性は限りなくゼロに近いとは思いますが、もしかすると制作者の方で、このクレイマーの論考をご覧になった方があるかもしれませんね。セクシュアリティの問題を保留するにせよ、このプロットはベートーヴェン×シューベルトというCPの、公式の表明として受け取っていいのではないでしょうか。

 

さらに、公式アカウント様はこんな画像をツイートされていました。

 

 

富山の有名な駅弁「ますの寿司」です。《ます》にちなんでいるところに、制作陣のこだわりが窺えます。注目したいのは、ますの寿司を食べ終わった蓋にお描きになった、ファン心をくすぐる絵です。

 

 

・・・この画でシューベルトは半人半鱒、すなわち「人魚」として描かれています。まさにクレーマーが描き出したシューベルトの「人魚願望」を汲み取ったかのようで、思わず微笑んでしまいました。私自身、ひとつの(ちょっと特異な)学術的な解釈が、日本のアニメを通して活き活きと人口に膾炙していることに対して、音楽研究へのモチベーションを刺激されたように思います。ありがとう公式(訳:いいぞもっとやれ)。

 

【追記】

慣例に従い著者の表記を「クレーマー」から「クレイマー」へと改めました。ツイッター等でご指摘下さった方ありがとうございます!

また当該著作『フランツ・シューベルト――セクシュアリティ・主体性・歌』について、この第1章および第2章前半を、シューベルト研究の堀朋平先生が『思想』上で翻訳・紹介なさっていることも付記させてください(1031号、2010年、pp.95-144)。

*1:本ブログで「批評」という言葉はcritiqueの訳語として用いています。

*2:Daniel Paul Schreber, 1842-1911は、ドイツの法律家。

*3:私は歌詞の話にしか触れていませんが、よろしければ全体もお読み下さい。

*4:「鱒」を女性とする当時の文化的背景については論文の前半に詳しいです。

*5:p.81

*6:機会があれば別の記事にしたく思います。

頌春

みなさま、明けましておめでとうございます。いかがお過ごしでしょうか。

私は元日を立山を望む富山にて、三が日を温かい故郷にて迎えました。

 

昨年は多くの方に支えられて過ごした一年でした。就職活動や論文の執筆に際して、苦楽を共にし、素晴らしい瞬間を分かち合った友人。至らない私を見守り、心強く励ましてくださったすべての方々に厚くお礼申し上げます。本年はみなさまへの感謝を忘れず、新しい道での恩返しを模索してゆきたく思います。何より自身にとって飛躍の年にできるよう、精進してまいります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

西洋ゼミの文献

更新をずいぶんと怠っていました,すみません。

 最近の西洋音楽史ゼミで読んでいるのは,BondsのAbsolute Music: The History of an Ideaです。なによりBondsが引用している,(膨大な!)古典的著作をあたる作業が,たいへん勉強になります。

Absolute Music: The History of an Idea

Absolute Music: The History of an Idea

 

Bondsを読む上で,ハンスリックの改訂の流れを追った批判版の存在は欠かせません。ドイツ人さすがです。

Vom Musikalisch-Schoenen: Ein Beitrag zur Revision der Aesthetik der Tonkunst

Vom Musikalisch-Schoenen: Ein Beitrag zur Revision der Aesthetik der Tonkunst

 

 後期ものんびり取り組む予定です。

《ロ短調ミサ曲》の批判校訂の歴史

1856/7年(Br&H)J. Rietz「旧全集」
1954年(Bärenreiter)F. Smend「新全集」
1997年(Peters)Christoph Wolff
2005年(Bärenreiter)U. Wolff「新全集の補遺」
2006年(Br&H)Joshua Rifkin
2010年(Bärenreiter)U. Wolff「新全集(改訂版)」
2014年(Carus)U. Leisinger


 そうそうたる音楽学者の名前が並んでしまいました。これ,バッハ旧全集から続くh-mollミサの批判校訂版の校訂者の一覧です。見て頂くと分かるように,20世紀末から立て続けに5つのエディションが出版されています。


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 バッハの他の作品と同じように,長年にわたって演奏のスタンダードを決定してきたのは新全集(スメント校訂)だと思います。ですがこの版は,デュルやダーデルセンの年代学の恩恵に預かることがなかったため,現在ではずいぶんと間違いが多いものだと見なされています。ふつう規範となるべきである新全集が,そういう風に不完全であったので,20世紀末に「新しい批判校訂版」への要請が高まったのは当然の成り行きだったのだと思います。
 1997年に満を持して出版されたのが,クリストフ・ヴォルフ校訂のPeters版。この版では,スメントが犯した年代推定に関するミスの多くが訂正されました。ところがそれから10年も経たないうちに,リフキンが新しい版を出版しています。というのも,クリストフ・ヴォルフ版は校訂報告が詳細でなかったため,より学術的な校訂と校訂報告が求められたのです。リフキン版では,C.P.E.バッハによる書き込みが初めて詳細に論じられました(特にクレド)。このリフキン版の成果を反映しつつ,さらにX線調査といった科学的な研究の成果が反映されたのが,2010年に出版された「新全集の改訂版」というわけです。
 そして今年。ライジンガーが新たに批判校訂版を出版しました。


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 奇しくもカンタータクラブが,来年の定期演奏会クレドを演奏するそうです。Peters版に付録のC.P.E.バッハによるクレドへの導入も演奏するということで,おそらく1786年におけるC.P.E.バッハによる演奏(バッハ死後の部分初演)を意識したものになると思うのですが,そうすると必然的にクレド本体部分もC.P.E.バッハの書き込みを全面的に肯定するかたちでの演奏になるかと思います。リフキンによる校訂のように,あくまでJ.S.バッハ自身の書き込みのみを追求するような,一昔前に流行ったいわゆるオーセンティックな志向の演奏は多々あると思うのですが,今回カンタータクラブが試みようとしているような上演はまだ珍しいと言えるかもしれません。

ベートーヴェンとニューミュージコロジー

美学ゼミでやってる文献のエントリー.

 

下記の論集を読んでおります.

 

こっちの文献も面白いです.

Beethoven and the Construction of Genius: Musical Politics in Vienna, 1792-1803

Beethoven and the Construction of Genius: Musical Politics in Vienna, 1792-1803

 
Beethoven and the Construction of Genius: Musical Politics in Vienna, 1792-1803

Beethoven and the Construction of Genius: Musical Politics in Vienna, 1792-1803

 

何が面白いかって,ベートーヴェン研究にあって社会学的なアプローチに終始する異色の一冊であること.ニューミュジコロジーの肉厚感.この本の書評を書いている音楽学者が,たとえばロックウッドといったいわゆるベートーヴェン研究畑の人間ではなく,タラスキンであることも,それを物語っています.

 

《ロ短調ミサ曲》参考文献

卒論の内容がフラフラしてる一方で,ゼミではしばらくバッハをやってます.4月の頭くらいに,Bach-Jahrbuchを10年分くらいペラペラしながら統計とって,頻出してるテーマを選んでみたら,どうも近年《ロ短調ミサ曲》が熱いぞ,ということになりました.受講生で分担しながら《ロ短調ミサ曲》について勉強する日々です.

 

バッハ ロ短調ミサ曲

バッハ ロ短調ミサ曲

 

日本語で読める最も充実した文献をひとつ挙げるとしたら,迷うことなくこれ.この本の巻末には書誌目録や楽譜リストもあります.

 

日本語では,下記の小林先生の著書も勉強になりました.

バッハ―伝承の謎を追う

バッハ―伝承の謎を追う

 

 後半《ロ短調ミサ曲》に大きく紙面が割かれています.

 

そして英語ならダントツでこちら.7年くらい前にイギリスで行われた大会の論集です.

Exploring Bach's B-minor Mass

Exploring Bach's B-minor Mass

 
Exploring Bach's B-minor Mass

Exploring Bach's B-minor Mass

 

Kindle版も購入できるようですね. この論集は本当に面白い論文ばかりで,毎週とても楽しく読んでいます.

 

最近うちの大学の研究センターに入ったドイツ語の論集もあります.  

パラパラしてみた感じ,上の論集を補うような小論がいくつか収められていました.

Bachs H-Moll Messe: Entstehung, Deutung, Rezeption

Bachs H-Moll Messe: Entstehung, Deutung, Rezeption

 

これらとは別に,ネットで公開されている論文で,示唆に富んだものもあります.最新の研究状況を反映したものもあり,ぜひゼミでも扱いたいと思って,無理くり発表に取り入れさせてもらったりしました(すみません).

 

ゼミの中で,自分は研究史をまとめたり,種々の楽譜校訂やいくつかのエディションについて考察しました.それだけでも,このあまりにも大きな作品が,今まさに古い遺跡の中から立ち現れる姿の片鱗を見た気がします.

来月にはカールスから新しい楽譜も出るらしいので,楽しみが増えたというか,悩みの種が増えたというか,そんな感じの6月でした.

トライトラーを読むための参考文献

備忘録。実に3年ぶりの美学ゼミでの発表。

 

1週間前にテクストが決まるという鬼畜なルール(?)で,私がGWを捧げる相手として選んだのは,レオ・トライトラーの『音楽と歴史的想像』。アメリカ人らしくないその名前の響きに,聞き覚えがあったからです。 

Music and the Historical Imagination

Music and the Historical Imagination

 

トライトラーを知ったのは,学部1年の頃です。冬の集中講義でのことでした。当時はよく分からないままに過ぎ去った記憶もあったので,真剣に取り組んでみたいな,と思ったのが動機です。

当時,私が読んだのは,青土社の雑誌『もうひとつの音楽史』に所収の論文「歴史とはどんな物語なのか」。ダールハウスや,グッドマンを読んだゼミでのことでした。このトライトラーの論文は,上でご紹介した当該の著作『音楽と歴史的想像』に所収の,とある論文への批判に対する,著者からの答えとして書かれたものでした。ですので,むかし読んだ時は,そういったコンテクストが分からなかったがゆえに,咀嚼しきれない部分が多々あったことは否めません。

 

さて,当該の『音楽と歴史的想像』では,トライトラーが1966年から88年までの22年間にわたって書き上げた論文が収録されています。この論文集の1章と4章(それぞれ1980年と1967年に初出の論文)を取り上げたのですが,言及されている歴史哲学家のテクストも当たってみよう,ということで何冊か手に取ってみました。

その中でも面白かったのが,コリングウッドの『歴史の観念』。

歴史の観念

歴史の観念

 

読み応えもあって,ダントツに面白かったです。これまでダールハウスが詳細に論じているのを間接的にしか読んだことがなかったので,今回,直接手に取り原文にあたれたということは,かなり価値あることでした。21世紀の我々が読んでも古く感じさせない,そんな語り口です。

 

そして,手に取ったは良いのですが,かなり読みにくさを感じて当惑したのが,ディルタイ。これは咀嚼できずに消化不良。これは別の機会にまた向き合いたい。

解釈学の成立  改訂版(1981年)

解釈学の成立  改訂版(1981年)

 

 

ちなみに,本文テクストの中では,上に挙げた歴史哲学や解釈学のみならず,言語学の援用も多いのですが,とりわけ何度も取り上げられているのが,ジョナサン・カラー。言語能力と言語運用の話がされています。

文学と文学理論

文学と文学理論

 

  

かの有名なバッハ研究者であるアーサー・メンデルが1961年の学会発表の論文で援用したカール・ヘンペルの「因果説示モデル」。このヘンペルの「因果説示モデル」が音楽史記述にもたらした影響の再検証が4章では行われます。

科学的説明の諸問題 (1973年)

科学的説明の諸問題 (1973年)

 

 

自然科学の哲学 (1967年) (哲学の世界〈7〉)

自然科学の哲学 (1967年) (哲学の世界〈7〉)

 

ヘンペルは英米圏の文献で頻出。戦後アメリカでずいぶん流行ってたみたいですね。これは押さえておかなければ,という感じでした。

 

あとは,1章の本文に 引用もされているので,今更という感じになりますが,シェンカーはみんな読んでる前提だったのかな。「形式主義者」としてトライトラーの批判の対象になっています。初期の著作である『ベートーヴェンの第9交響曲』の分析。

ベートーヴェンの第9交響曲 分析・演奏・文献

ベートーヴェンの第9交響曲 分析・演奏・文献

 

シェンカーは,むかし内輪の勉強会で取り上げて,テクストと楽譜を突き合わせながら丁寧に検討をした経験があったので,振り返ってみると,その経験がずいぶんと今回の発表にも効いていた気もします。

こんな感じで,いろいろなテクストを読みながら,かなり集中して連休からの1週間を過ごすことができました。ちょっと分量がキャパを越えていた感じは否めませんが。ゆっくり休みます。

相変わらず

相変わらずゆるーい学業生活の合間に楽器を取り出してきて,どこぞの本番に乗ってみたり,珍しく活動的に過ごした春でした。

 

以下,執筆したプログラムノートのメモ。

 

さいきん書いたもの。

・母校の校歌の吹奏楽編曲

・伊藤康英「ぐるりよざ」

・スミス「アフリカ:儀式と歌,宗教的典礼

・スパーク「オリエント急行

・2013年度 課題曲1「勇者のマズルカ

・2013年度  課題曲5「流沙」

 

いま書いているもの。

ヤコブ・デ・ハーン「ロス・ロイ」

・リード「アルメニアンダンス パートⅠ」

・中原達彦「吹奏楽のための音楽 第5番」

 

ゼミでやっているもの。

シューマン op. 25-7とロベルト・フランツop. 25-1

ヨハネ受難曲 第6曲,7曲

 

【追記 2016.12.31】

これまでに執筆したプログラムノートをメモする場所をつくりました。

本人もどんどん忘れてしまうので、小さなものも書き留めておきます。

http://hitomixfu.web.fc2.com/works.html

 

 

「解釈」と「音楽解釈学」

内輪でやっている某勉強会で,ここ最近佐々木健一『美学辞典』を扱っています。

美学辞典

美学辞典

芸術学やら美学を専攻するだいたいの学生は,参考書としてこの辞典を買う(と私は信じている)のですが,この本は通読する類のものというよりは,勉強していて何か気になることがあるとその都度参照する,みたいなのが正しい用途のような気がしています。実際に,これまで私も幾度となくこの本を参照し,重宝してきました。一方で腹を括って深く読み込んだことはありません。ということで,今回の勉強会では,この辞典から一人一項目選んで発表してゆくとになりました。グエッ。

 

発表の1回目では,友人が「かたち」の項目の要約と「ロシア・フォルマリズム」について扱ってくれました。第2回目は私が当番。どの項目を選んでもよかったのですが,佐々木先生が音楽について多少なりとも触れている項目を選んで吟味するのが面白いかなーと思い,「解釈」の項目を選んでみました。

 

前置きが長くなりました。・・・先週の発表で使用した参考文献を紹介しようと思ってこのエントリーを書き始めたわけです。

さしあたって読み始めたのがガダマー『真理と方法』。

真理と方法 1 哲学的解釈学の要綱 (叢書・ウニベルシタス)

真理と方法 1 哲学的解釈学の要綱 (叢書・ウニベルシタス)

2巻が面白かった。あとはこっちも。

哲学・芸術・言語―真理と方法のための小論集

哲学・芸術・言語―真理と方法のための小論集

残念ながら,ガダマーの著作は手当たり次第に読んだだけに留まり,当の発表では殆ど使えず。

 

というのも,例の『美学辞典』の「解釈」の項(の特にⅡ)は,実はあまり「解釈学」の概念史の流れを追っているわけではないためです。特に同化メカニズムにおけるパース「解釈項」の話に大きく紙面が割かれていて,その辺を理解するためには,こっちの論文とかを参照したり。

講座 美学 (3)

講座 美学 (3)

三巻に収用されている3「芸術記号論」。エーコ記号論』を踏まえていないと,佐々木先生の「解釈」の項は読めなかったりするので,大いに参考になりました。また同書に収用されている2「解釈学」(眞鍋將)は,むしろ佐々木先生が「解釈」の項ではそれほど詳細に触れない,シュライエルマッハーからガダマーへ繋がるような,「解釈学」のある種「概念史」が,分かりやすく(でも読むには根性が要ると思う)まとめられていました。

ちなみに佐々木先生の「解釈」の項目では,パース「解釈項」における「無限の連鎖」という話から,音楽における「演奏解釈」の話が続く。

…が。

「音楽解釈学」って別にあるよね,というのが今回の発表のもう一本の柱。主にクレッチュマーやアーノルト・シェーリング(の「詩的理念」!)から,マーラー研究におけるフローロスに至るような,「音楽解釈学」という系譜の話。

音楽美学入門 (1981年)

音楽美学入門 (1981年)

これはもう本当に文献がなくて,NGを引っ張り出して来たり,国安先生の著書にお世話になったり。シェーリング以降,通俗的な楽曲解説のレベルになってしまったとされる「音楽解釈学」も,クレッチュマーにおける学問的態度は評価されるべきであるという見方や,当時「客観的」とされた音楽分析や「音楽内的な」思想としてのエネルゲーティクとは,まったく別の方向を示す流れとして「解釈学」の台頭を捉えることも可能だと知ることができたのは収穫でした。(←日本語長・・・)

なんにせよ「音楽解釈学」は文学研究における「解釈学」とはかなーり脈略を異にしています。クレッチュマーは18世紀の「情念論」を音楽理解の手法として復活させるために解釈学を持ち出してきているわけですが,まあそれは「解釈学」の系譜とはぶっちゃけあんまり関係ないよね,というお話。

そういうわけで,どうにもこうにもまとめようがなくなってしまった訳です。まとめが「まとめられませんでした」とかいう,改めてこんなトンデモナイ発表にお付き合いくださいました皆さんありがとうございました。なんかまあ,楽しかったです。

「ベートーヴェン受容史」に関する参考文献。

この数週間,S. Burnhamによるベートーヴェン受容史の論文を読むなどしていました。

Sounding Values: Selected Essays (Ashgate Contemporary Thinkers on Critical Musicology Series)

Sounding Values: Selected Essays (Ashgate Contemporary Thinkers on Critical Musicology Series)

この論集の15章に掲載されています。バーナムと言えば,NG(2nd ed.)でもベートーヴェンの受容の項目を書いている研究者です。A.B.マルクスの論文も有名ですが,Beethoven Heroもとりあえず借りてきて,そのうち読む予定です。

 

この機会でベートーヴェンの200年をめぐる,わりと包括的な勉強ができ,演習授業の課題という枠を超えて楽しませてもらいました。というわけでこのエントリーでは,ベートーヴェンの受容史関連で使用した文献を,忘れぬうちに記しておきます。

 

手軽に読める「受容史」と言えば,西原先生のものがまず思い浮かびます。今回も数年ぶりに読み直して,また多くのものを得させてもらいました。

「楽聖」ベートーヴェンの誕生―近代国家がもとめた音楽 (平凡社選書)

「楽聖」ベートーヴェンの誕生―近代国家がもとめた音楽 (平凡社選書)

またA.B.マルクスベートーヴェンに関する論は,非常に分かりやすく,バーナムの補強になりました。ちなみに件のマルクスベートーヴェンソナタ論は日本語でも読めます。

今となっては非常に読みにくく,まず演奏家でこれを参照する人は少ないだろうなぁ,という感も……。

 

でもうひとつ,今回の発表で重宝した,私のとっても好きな論文。

西洋音楽思想の近代―西洋近代音楽思想の研究

西洋音楽思想の近代―西洋近代音楽思想の研究

読んでて楽しい,に尽きます。ベートーヴェン関連の章は本当に充実していて,今回はホフマンの引用など多く参考にさせて頂きました。

 

三浦先生と根岸先生の監修で,三浦先生による上記著書に近い内容のコンパクトな論文も収録されているのが,こちら。

音楽学を学ぶ人のために

音楽学を学ぶ人のために

三浦先生の論文はもちろんのこと,他の論文も充実しています。特にエネルゲーティクに関連して,木村先生の論文は日本語で読める最も簡潔な論文です。今回の発表でもハルムに関する部分など,本当に重宝させて頂きました。

 

そうそう,バーナムの論文で,ベートーヴェンの1870年における受容に位置づけられているキーパーソンと言えば,ワーグナー。というわけで,ワーグナーに関してのパラグラフを作成するにあたってはこれを。

吉田先生の博論といえば,もう分量がハンパなさすぎる。去年の冬だったか,吉田先生がうちの大学で講義をするというので,この機会に…!みたいなことを思って,最初から読みはじめました。何度か図書館に通って閲覧室で出してもらうんだけど,分厚くて一向に進まなかった記憶があります。この書籍はその博論の終章をまとめたものということですが,今回は特にワーグナーの1870年の論文『ベートーヴェン』に関して参考にさせて頂きました。

ワーグナーの『ベートーヴェン』に関して,私が探した中ではこの吉田先生の論文がダントツに面白く,一論文の中の限られた紙面で読めるものとしては非常に詳細だったと思います。

 

ちなみにワーグナーベートーヴェン』は日本語で読めます。一次文献として参考にしたのはこの辺。

ベートーヴェン―第九交響曲とドイツ音楽の精神

ベートーヴェン―第九交響曲とドイツ音楽の精神

ベートーヴェン―永遠の序章 (1950年)

ベートーヴェン―永遠の序章 (1950年)

 

あとはワーグナーに関連して,ショーペンハウアー云々の話をするにあたっては,こちらの論文も。今道先生監修のこの論集。

精神と音楽の交響

精神と音楽の交響

これに収録されている渡辺護先生の論文も参考にさせて頂きました。

 

2次文献はこんな感じでしょうか。文献挙げただけで,大体どういう発表だったのか想像できてしまう。こんな漠然としたテーマで,こんなに広く浅くゆる~く発表させて頂けるのも,若くてピチピチの間だけですね,と改めて思ったのでした。

 

【2016.12.4 追記】この記事にアクセスがあるようなので、わずかに文章を整えまえした。

10月18日

忘れぬうちに演奏会の記録を。

 もう先週のことなのだけれど,JCNプレミアムコンサート2012ということで,「ウィーン・フーゴ・ヴォルフ三重奏団」,18日木曜日,新しくなった東京芸術劇場へ。

 アレンスキーのピアノ三重奏曲第一番op.32をはじめとした,濃いというか,なんともポイントを押さえたプログラム(笑)アレンスキーの力作,勢いのある快演で,聴いててほんと気持ちよかった。

 息をのむような美しいアンサンブルに嘆息。

 

メモ,10月13,14日演奏会

 土曜日は芸大奏楽堂へ。「幕末~その時、世界は?」シリーズ第3回「ジャポニズム~外から見たニッポン」。レクチャー「パリ万博とエグゾティスム」(井上さつき先生)&コンサート「オペラ、オペレッタの中のニッポン」。井上先生のレクチャー分かりやすく,楽しかった。

パリ万博 音楽案内 (はじめて音楽と出会う (はじめて音楽と出会う本)

パリ万博 音楽案内 (はじめて音楽と出会う (はじめて音楽と出会う本)

で,この本を思い出した。

 

 日曜日はサントリーホールへ。オルガンレクチャーコンサートシリーズ「ウィーン音楽散歩Ⅱ」。サントリーはハコが大きいせいもあり,ちょっと・・・。プログラム前半は妙に危うい曲もあり,どきどきしながら聴いていたが,プラニアフスキー氏,最後のシュミット前奏曲は神懸っていた。

 

アルヒーフは監獄?「音楽のある展覧会」

 

音楽のある展覧会「ウィーンに残る,日本とヨーロッパ450年の足跡」

 3連休はウィーン楽友協会アルヒーフ資料展へ。

http://www.suntory.co.jp/suntoryhall/sponsor/2012/121006.html

 展覧会用にサントリーホールの小ホール(ブルーローズ)の内装が大きく変わっており,しかも相当な凝りようでなかなか見栄えしていたので「お金かかっとるなあ」という印象を受けつつ,あまり盛況しているとは言い難い様子。

 特に連休2日目である日曜日は人もまばらで,おかげでゆっくり資料を見ることができた。さすがに月曜日である今日の昼時には(ビーバ氏のレクチャーとあってだろうか),人口密度もその倍ほどだったように思われるが,展示品を見るのに人垣をかいくぐるようなことがないのは,ストレスフリーで有難い。

 

 展示の内容に関しては,少なくとも私が,「楽友協会のアルヒーフ」というものに対して抱いているイメージからは少し遠かったように思う。むしろ今回の展覧会を通してその認識を改めさせられた部分も多い。

 無論アルヒーフには我々が期待しがちな作曲家に由来する手稿譜・直筆譜も数多あるのだろうが,出版譜あり,手紙あり,ポートレイトあり,遺品あり……。

 そこから「意味のあるものを取り出す」のは至難の業。歴史的に重要な資料として語らせるためには一種のスキルが必要なんだな,と。今回の展覧会で日本に連れてこられた展示品の数々は,そういう観点では上手くひとつの線を描いていたと思う。 

  さてギャラリートークであるが,初日フックスによるレクチャーは,予備知識がない人向け,という印象が強かった。19世紀の「偉大な作曲家とムジークフェラインの歴史」という内容で,スライド付きの解りやすい内容。良くも悪くも一般向けの公開講座という感が否めなかった。

 本日のビーバ氏によるレクチャーは,昨日よりは展示品に関する言及も多く,個人的にはとても勉強になった。

 

はじめまして。

洒落たタイトルを考えることすら億劫で,「大学生活の記録」などという無機質なタイトルを冠してしまったこのブログ。
さしあたり何か気の利いた挨拶を書かねばと思い,キーボードに向かうのですが,さして面白い文章を綴れるわけでもなく。
大学1年も終わりを迎えつつあるこの時期に,アウトプットの場所を求め。

というわけで,飽き性この上ないこの私が,ブログをいつまで続けることができるのかしら。


【追記 2012. 9. 30】
ブログタイトルを「大学生活の記録」から「うにっき」に変更し,ついったのプロフィールに反映。